任務報告

七月になった。

期末試験が終わって、学校が少し静かになった。
私の担当するクラスも、試験明けの緩んだ空気があった。
生徒たちがよく笑っていた。
私はそれを見ながら、遥はどうだろうと思った。
遥の試験が終わったかどうか、聞いていなかった。

帰り道、スーパーに寄った。

遥の好きなものを買おうとした。
何が好きだったか、考えた。
からあげ。
きゅうりの浅漬け。
プリン。
三つは出てきた。
四つ目が出てこなかった。
四年間、一緒に暮らしていて、四つ目が出てこなかった。
スーパーの蛍光灯の下で、かごを持ったまま、しばらく立っていた。

からあげの材料を買った。

夕飯を食べ終えてから、遥が部屋に戻ろうとした。

「遥」と私は言った。

遥が振り返った。
「なに」と言った。

「ちょっといいか」
遥が少し間を置いた。
「うん」と言った。

遥の部屋に入るのは、久しぶりだった。
本棚に本が並んでいた。
背表紙が、きれいに揃っていた。
几帳面に並べていた。
机の上に、教科書とノートがあった。
ベッドが、きちんと整えられていた。
十一歳の部屋だったが、私の部屋より整っていた。

遥がベッドに座った。
私は机の前の椅子に座った。
向かい合った。

「奈緒さんのこと、どう思う」と私は言った。

言ってしまってから、唐突だったと思った。
前置きがなかった。
でも前置きを探していたら、また言えなくなる気がした。
だから言った。

遥が黙った。

膝の上に手を置いて、下を見た。
私は遥を見た。
遥の手が、少し動いた。
指が、パジャマの生地をつまんだ。
離した。
またつまんだ。

沈黙が続いた。

私は待った。
急かさなかった。
体育の授業で、生徒が答えを探しているとき、待つことを覚えた。
待つことが、答えを引き出すことがある。
今夜も、待った。

「お父さんが好きならいいんじゃない」と遥が言った。

下を向いたまま言った。
私の顔を見なかった。

その言葉を、私はしばらく考えた。

お父さんが好きならいい。

好きでいてもいい、ではなかった。
拓海が好きなら、私は何も言わない。
拓海が決めることだから、私には関係ない。
そういう言葉だった。
十一歳が、場所を譲った言葉だった。

遥がいつ、その言葉を用意したのか。

夜泣きをしながら、用意したのかもしれなかった。
声を殺して泣きながら、父親に何か聞かれたときのために、用意した言葉かもしれなかった。
その想像が、胸に刺さった。
刺さったまま、抜けなかった。

「遥」と私は言った。

遥が顔を上げた。

「お前が、どう思うかを聞いてる」
遥がまた下を向いた。
指がパジャマをつまんだ。
「わからない」と言った。
今度は小さい声だった。

「そうか」と私は言った。

椅子から立とうとして、止まった。

立ったら、終わりになる気がした。
この部屋を出たら、また何も言えないまま戻る気がした。
だから座ったまま、もう少しいた。

「俺も、わからない」と私は言った。

遥が顔を上げた。
今度は私を見た。

「どうすれば正しいのか、わからない。
遥のこと、奈緒さんのこと、どっちも大事で、どっちが先かを決められない。
ずっとそのまま、動けなかった」
遥が黙っていた。

「だから今夜、聞いた。
お前に聞かないで、決めるのは、違う気がした」
部屋が静かだった。

本棚の本が、並んでいた。
外で、虫が鳴いていた。
七月の夜だった。
遥が膝の上の手を見た。
指が、パジャマをつまんでいた。

「お父さんは、奈緒さんのこと、好きなの」と遥が言った。

「好きだ」と私は言った。
「お前のことも、好きだ」
遥が「そっか」と言った。

それだけだった。
答えは出なかった。
でも今夜、遥と話した。
話せた。
それだけが、今夜の確かなことだった。

部屋を出る前に、私は遥に言った。

「夜泣いてるの、聞こえてた」
遥が固まった。

「ノックできなかった。
すまなかった」
遥はしばらく黙った。
それから「べつに」と言った。
でも声が、少し震えた。

私は部屋を出た。

廊下に出て、ドアを閉めた。
遥の部屋の前に、少しだけ立った。
中から音はしなかった。
泣いていなかった。
少なくとも今は、泣いていなかった。

それだけで、今夜は十分だった。

任務報告

委託の朝、いい日だった。

目が覚めたとき、光が眩しすぎなかった。
体が重くなかった。
布団から出られた。
今日はいい日だ、とわかった。
わかって、少し泣きそうになった。
泣かなかった。
今日は泣く日ではなかった。
今日は、朝陽と朝食を作る日だった。

朝陽を起こしに行った。

部屋に入ると、朝陽はもう起きていた。
布団の上に座って、窓の外を見ていた。
私が入ってくると、振り返った。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。

「おはよう」と朝陽が言った。

「おはよう」と私は言った。
「一緒に作ろう」
朝陽が「うん」と言って、立ち上がった。

二人で台所に立った。

朝陽が卵を割った。
上手だった。
黄身が崩れなかった。
いつから上手になったのか、わからなかった。
でも上手だった。
私がほうれん草を切った。
朝陽が混ぜた。
二人で作った。

スクランブルエッグができた。

トーストと一緒に、テーブルに並べた。
二人で座って食べた。
朝陽が「おいしい」と言った。
私も食べた。
飲み込めた。
味がした。
卵の柔らかい味がした。
今日は最後の朝食だった。
でも最後だとは言わなかった。
ただ、食べた。

食べながら、朝陽が話した。

昨日、学校で理科の実験があったこと。
植物の種を植えたこと。
芽が出るのが楽しみだと言った。
私は「何の種」と聞いた。
「ひまわり」と朝陽が言った。
「ひまわりかあ」と私は言った。
「大きくなるよ」と朝陽が言った。
「なるね」と私は言った。

普通の朝だった。

普通の朝が、今日もあった。

担当者の車で、里親の家へ向かった。

朝陽が後部座席に座った。
窓の外を見ていた。
私は隣に座った。
車が動き出した。
町が流れた。
いつも通る道だった。
パン屋、郵便局、朝陽の通う小学校。
小学校の前を通ったとき、朝陽が少しだけ窓の方に顔を向けた。
何も言わなかった。
また前を向いた。

私は朝陽の横顔を見た。

ひまわりの種を植えた、と言っていた。
芽が出るのを楽しみにしていた。
その芽が出るころ、朝陽はここにいない。
誰が水をやるのか。
先生がやるかもしれない。
クラスの誰かがやるかもしれない。
朝陽が見られないかもしれなかった。

でも種は、植えた。

朝陽が植えた種が、土の中にあった。
それだけは、確かだった。

里親の家は、川の近くにあった。

緑の多い、静かな住宅街だった。
庭に、花壇があった。
色とりどりの花が咲いていた。
誰かが丁寧に育てた花だった。
担当者が車を止めた。

里親の夫婦が出てきた。

五十代の、穏やかな二人だった。
妻が朝陽に「来てくれてありがとう」と言った。
声が温かかった。
朝陽が少し照れた。
夫が「花、好きか」と言った。
花壇を指した。
朝陽が「きれいですね」と言った。
夫が「一緒に育てよう」と言った。
朝陽が小さく頷いた。

私はその会話を、少し離れて見ていた。

朝陽が花壇を見ていた。
色とりどりの花を、じっと見ていた。
ひまわりはまだなかった。
でも夏になれば、咲くかもしれなかった。
朝陽が育てた、学校のひまわりとは別の、ひまわりが。

玄関の前で、朝陽が私を見た。

「お母さん」と言った。

「なに」
「だめな日は、どうするの」
私は止まった。

だめな日。
朝陽がその言葉を使った。
いい日と、だめな日。
その区別を、朝陽はずっと知っていた。
知っていて、今日も使った。
だめな日の私を、心配していた。

「一人でいる」と私は言った。

正直に言った。
だめな日は、布団の中にいる。
一人でいる。
それが今までだった。

朝陽が「一人はだめだよ」と言った。

静かな声だった。
責めていなかった。
ただ、言った。
八歳が、母親に言った。
一人はだめだよ、と。

私は答えられなかった。

答えられないまま、朝陽の顔を見た。
朝陽が私を見ていた。
笑っていなかった。
でも怒っていなかった。
ただ、真剣な顔だった。
八歳の、真剣な顔だった。

「わかった」と私は言った。

朝陽が少し頷いた。
それから里親の妻の方を向いた。
妻が「入ろうか」と言った。
朝陽が頷いた。
歩き出した。
玄関のドアが開いた。
朝陽が中に入った。
一度だけ振り返った。
私を見た。
笑った。

確認しなかった。

私の顔を見る前に、笑った。
振り返って、そのまま笑った。
それだけだった。
ドアが閉まった。

花壇の花が、風に揺れた。

帰り道、私は担当者の車に乗らなかった。

「歩いて帰ります」と言った。
担当者が「大丈夫ですか」と言った。
「今日はいい日なので」と私は言った。
担当者が頷いた。

川沿いの道を歩いた。

水が流れていた。
五月の川だった。
光が水面に当たって、きらきらしていた。
風が吹いた。
温かかった。

スマホを取った。

川島さんの名前を探した。
電話をかけた。
呼び出し音が鳴った。
二回鳴って、川島さんが出た。

「松本です」と私は言った。
「朝陽を、送ってきました」
「そうですか」と川島さんが言った。
穏やかな声だった。
「今、どこにいますか」
「川の近くを、歩いています」
「一人ですか」
「一人です」と私は言った。
少し間を置いた。
「だめな日になったとき、電話してもいいですか」
川島さんが「もちろんです」と言った。
「いつでも」

電話を切った。

川が流れていた。
止まらずに、流れていた。
私は歩き続けた。

朝陽が「一人はだめだよ」と言った。
その言葉が、今日の私を動かした。
だめな日に一人でいることを、朝陽に心配させない。
そのための電話だった。
朝陽のための電話が、私のための電話でもあった。

今日は、まだいい日だった。

だめな日が来るかもしれなかった。
明日かもしれなかった。
来週かもしれなかった。
でもだめな日になっても、今日、電話番号を一つ持った。
川島さんの声が、電話口にあった。

だめな日も、もう一人ではなかった。

川沿いの道が続いていた。
光が水面に当たっていた。
風が吹いた。
五月の風が、温かかった。
私は歩いた。
どこまで歩くかは、決めていなかった。
でも今日は歩けた。
いい日の足が、川沿いを歩いていた。

朝陽が植えたひまわりが、今頃土の中にあった。

芽が出るのを、誰かが楽しみにしている。
朝陽が楽しみにしている。
その楽しみが、土の中にあった。
私には見えなかったが、そこにあった。

それだけが、今日の最後に、確かなことだった。

任務報告

奈緒さんと会ったのは、金曜日の夜だった。

遥は同級生の家に泊まりに行っていた。
珍しいことだった。
遥が友達の家に泊まるのは、この一年で二度目だった。
奈緒さんと二人で会える夜が、自然にできた。
自然にできたことが、少し後ろめたかった。
後ろめたい理由を、うまく言えなかった。

駅の近くの、小さな居酒屋だった。

カウンターに二人で座った。
奈緒さんがビールを頼んだ。
私も同じものを頼んだ。
グラスが来た。
二人で飲んだ。
奈緒さんが「遥ちゃん、お泊まりなんだね」と言った。
「珍しいだろ」と私は言った。
奈緒さんが「友達がいるんだね」と言った。
笑った。
私も笑った。

笑いながら、遥の夜泣きを思い出した。

しばらく、仕事の話をした。

奈緒さんが担当している生徒のこと。
私が受け持っているクラスのこと。
話しやすい話題だった。
二人とも学校に勤めていた。
共通の話題が、自然に出てきた。
奈緒さんの話し方は、聞きやすかった。
声が穏やかで、言葉を選ぶ人だった。

料理が来た。

枝豆と、だし巻き卵と、焼き鳥が並んだ。
奈緒さんが「食べて」と言った。
私は箸を取った。
だし巻き卵を食べた。
柔らかかった。
出汁の味がした。
奈緒さんも食べた。
しばらく、食べながら話した。

「遥ちゃん、少しずつ慣れてくれるといいね」と奈緒さんが言った。

グラスを持ったまま、言った。
私を見ていた。

「そうだな」と私は言った。

奈緒さんが少し間を置いた。

「私、何か失礼なことしたかな」と言った。

グラスを置いた。
カウンターに目を落としながら言った。
私を見なかった。
聞きたくて聞いたのか、聞かずにいられなくて聞いたのか、わからなかった。
でもその言葉の中に、先週の夕飯からずっと抱えていたものがあった。

「そんなことない」と私は言った。

「料理、口に合わなかったかな」
「うまかったと思う」
「話しかけ方、変だったかな」
「そんなことない」
奈緒さんが「そっか」と言った。
でも顔が、晴れなかった。
私にはわかった。
そんなことない、という言葉が、答えになっていないことが、奈緒さんにはわかっていた。
わかっていて、これ以上聞かなかった。

帰り道、一人で歩いた。

奈緒さんとは駅で別れた。
奈緒さんが「また連絡する」と言った。
私は「ああ」と言った。
改札を入る奈緒さんの背中を見た。
小さくなって、消えた。

私は歩いた。

夜の道だった。
六月だから、風が生ぬるかった。
街灯が続いていた。
人が少なかった。
歩きながら、奈緒さんは悪くない、と思った。

何度思っても、遥の夜泣きが頭から消えなかった。

声を殺して泣いていた音。
廊下に立って、ノックできなかった夜。
翌朝、目が腫れていた遥の横顔。
それが、歩くたびに浮かんだ。

奈緒さんに、言えなかった。

遥が泣いていたことを。
廊下でノックできなかったことを。
翌朝、二人とも何も言わなかったことを。
全部、言えなかった。
言えば、奈緒さんが傷つく。
傷ついた奈緒さんが、遥との距離をもっと慎重に測り始める。
その慎重さが、遥にはもっと伝わらない。

わかっていた。

悪循環だとわかっていた。
でも言えなかった。

交差点で、信号が赤になった。

止まった。
車が通った。
ヘッドライトが、道を照らした。
通り過ぎた。
暗くなった。
信号が青になった。
歩いた。

今夜、私は誰に対しても正直になれなかった。

奈緒さんには「そんなことない」と言った。
遥には何も言えていない。
自分に対しても、何が正しいのかを決められずにいる。
体育教師として、生徒に正直でいることを教えてきた。
正直に話せ、と何度も言ってきた。
自分がいちばん、できていなかった。

アパートに帰った。

遥はいなかった。
部屋が静かだった。
いつもは遥がいる静けさと、いない静けさが、違った。
遥がいない静けさは、広かった。
広くて、少し寒かった。

私はソファに座った。

テレビをつけなかった。
静かな部屋に、一人でいた。
奈緒さんのこと、遥のこと、順番に考えようとした。
でも順番がつかなかった。
どちらが先かを決めると、どちらかを後回しにすることになる。
後回しにできる話ではなかった。

どちらも、大事だった。

どちらも大事だから、動けなかった。
考えるより動くはずの自分が、この問題だけは動けなかった。
ソファに座ったまま、夜が深くなった。

任務報告

話す日を、土曜日に決めた。

理由があった。
土曜日は朝陽が学校に行かない。
一日、一緒にいられる。
話すなら、一日の終わりがいいと思った。
朝に話して、朝陽が学校に行く後ろ姿を見送るのは、違う気がした。
話した後、一緒にいたかった。

その土曜日は、いい日だった。

朝、目が覚めたとき、体が重くなかった。
光が眩しすぎなかった。
布団から出られた。
今日はいい日だ、とわかった。
今日に決めていてよかった、と思った。
だめな日に、この話はできなかった。

朝食を、一緒に作った。

「何がいい」と朝陽に聞いた。
「ホットケーキ」と朝陽が言った。
ホットケーキは、時間がかかった。
でも今日は時間があった。
粉を量って、卵を割って、牛乳を入れた。
朝陽が混ぜた。
泡立て器で、真剣に混ぜた。
生地が滑らかになった。

フライパンに流した。

丸く広がった。
表面に気泡が出てきた。
ひっくり返した。
きつね色だった。
うまくできた。
朝陽が「きれい」と言った。
笑った。
私の顔を確認する前に、フライパンを見て笑った。

二枚、三枚と焼いた。

バターとメープルシロップを出した。
二人でテーブルに座って食べた。
甘かった。
温かかった。
朝陽が「おいしい」と言った。
私も食べた。
今日は飲み込めた。
喉が、ちゃんと動いた。

午後、一緒にテレビを見た。

朝陽が好きな動物の番組だった。
アフリカの草原で、チーターが走っていた。
朝陽が「速い」と言った。
「本当に速いね」と私は言った。
チーターが獲物を追いかけた。
朝陽が画面に近づいた。
私は「離れて見なさい」と言った。
朝陽が「はーい」と言って、少し戻った。

普通の午後だった。

普通の午後が、今日はあった。
こういう午後を、もっと作れていたらよかった。
でも今日は、あった。
今日あったことは、本当にあった。
それだけは、確かだった。

テレビが終わった。

夕飯を作った。
朝陽の好きなからあげにした。
油の温度を確かめながら、揚げた。
焦げなかった。
きつね色に、うまく揚がった。
二人で食べた。
朝陽が「おいしい」と言った。
三回、言った。

夕飯の片付けが終わってから、私はソファに朝陽を呼んだ。

「朝陽、ちょっといい」
朝陽が来た。
私の隣に座った。
テレビはついていなかった。
部屋が静かだった。
五月の夜だった。
窓の外で、どこかで虫が鳴いていた。

「話があるんだけど」と私は言った。

朝陽が私を見た。
笑っていなかった。
でも怖がってもいなかった。
ただ、聞く顔だった。

「朝陽に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」と私は言った。
「お母さんとは別の、別の大人の人のところへ」
朝陽が黙った。

私は続けた。
里親という制度のこと。
朝陽のことをちゃんと迎えてくれる家があること。
お母さんが元気になるための時間が必要なこと。
川島さんに教わった言葉を、自分の言葉に変えながら、話した。

朝陽がしばらく黙っていた。

膝の上に手を置いて、下を見ていた。
私は待った。
急かさなかった。
朝陽のペースを、待った。

「お母さんが治ったら、帰れる?」と朝陽が言った。

私は一秒、止まった。

治る、という言葉を、自分に使ったことが、あまりなかった。
治るかどうか、わからなかった。
主治医も、治る、とは言わなかった。
うまく付き合っていく、という言葉を使った。
でも朝陽は、治る、と言った。

「そうなるといいと思ってる」と私は言った。

嘘をつかなかった。
治る、と言えなかった。
でも治りたい、という気持ちは本物だった。
そうなるといいと思ってる、という言葉が、今の私に言える、一番正直な言葉だった。

朝陽が頷いた。
「わかった」と言った。

部屋が静かだった。

私は朝陽の横顔を見た。
朝陽が窓の外を見ていた。
虫の声がしていた。
五月の夜の、細い声だった。

「今日、いい日だったね」と朝陽が言った。

私は止まった。

朝陽が、いい日、という言葉を使った。
私が使う言葉を、朝陽も使っていた。
いい日と、だめな日。
その区別を、朝陽はずっと知っていた。
私が思っていた以上に、ずっと前から、知っていた。

「うん」と私は言った。
声が、震えそうだった。
震える前に、飲んだ。
「今日は、いい日だった」
「ホットケーキ、おいしかった」と朝陽が言った。

「うん」と私は言った。

「からあげも」
「うん」
朝陽が私を見た。
笑った。
確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。
今日は何度も、確認しない笑顔があった。

私も笑った。

涙が出そうだったが、出なかった。
笑えた。
今日はいい日だった。
いい日の終わりに、この話ができた。
いい日に話したかった。
だめな日に話すより、いい日に話したかった。
それだけは、叶った。

任務報告

奈緒さんが来てから、一週間が過ぎた。

その間、遥は変わらなかった。
朝、起きてくる。
朝食を食べる。
学校へ行く。
帰ってくる。
夕飯を食べる。
部屋に戻る。
眠る。
その繰り返しだった。
私も変わらなかった。
学校へ行って、帰って、夕飯を作って、食べた。
二人の生活は、表面だけ見れば、何も変わっていなかった。

変わっていないことが、変わっているのかもしれなかった。

でも確かめる方法がなかった。
遥に「どうだ」と聞けなかった。
「何が」と聞き返されたら、答えられなかった。
体育教師として生徒に話しかけるときは、言葉が出た。
でも遥には、出なかった。

木曜日の夜だった。

私は風呂から上がって、廊下を歩いた。
遥の部屋の前を通った。
ドアが閉まっていた。
いつも閉まっている。
でもその夜は、ドアの隙間から光が漏れていた。
まだ起きていた。

音がした。

小さな音だった。
最初、何の音かわからなかった。
一歩、止まった。
もう一度、聞いた。

泣いていた。

声を殺して、泣いていた。
声を殺していたから、余計に聞こえた。
堪えている音が、ドアの隙間から漏れてきた。

私はドアの前に立った。

ノックしようとした。

右手を上げた。
ドアの前で、止まった。

何を言えばいいか、わからなかった。
「どうした」と言えば、遥が答える。
答えた内容によっては、私が選ばなければならなくなる。
奈緒さんのことだと遥が言ったとき、私は何を言えるか。
大丈夫だと言えるか。
奈緒さんとは終わりにする、と言えるか。
遥が一番大事だと言えるか。

言えるかどうか、わからなかった。

わからないまま、ドアをノックすることが、できなかった。
右手を下ろした。
廊下に立ったまま、しばらくいた。
遥の泣き声が、まだ聞こえていた。
堪えている、細い音だった。
十一歳が声を殺して泣く音だった。

私は自分の部屋に戻った。

ベッドに入った。

天井を見た。
白い天井だった。
暗くて、よく見えなかった。
遥の泣き声が、耳に残っていた。
実際にはもう聞こえなかった。
でも残っていた。

遥が泣いている理由は、わかっていた。

奈緒さんのことだった。
確かめたわけではなかった。
でもわかっていた。
四年間、二人で暮らしてきた。
遥の泣き方を、私は知っていた。
悔しくて泣くときと、寂しくて泣くときと、怖くて泣くときが、違った。
今夜の音は、怖くて泣く音に似ていた。

何が怖いのか。

変わることが怖いのか。
二人の生活が変わることが怖いのか。
それとも、変わった後に自分の居場所がなくなることが怖いのか。

答えを、私は知らなかった。

知らないまま、ドアを開けなかった。
開けられなかった。
開けた先に、自分がまだ用意できていない言葉が待っている気がした。
用意できていない言葉を、遥にぶつけたくなかった。

それは、遥のためだったのか。

自分のためだったのか。
今夜は、区別がつかなかった。

翌朝、遥が台所に来た。

髪が少し寝癖になっていた。
目が、微かに腫れていた。
でも私は言わなかった。
遥も言わなかった。

「おはよう」と遥が言った。

「おはよう」と私は言った。

トーストを焼いた。
二枚、焼けた。
バターを塗った。
二人でテーブルに座った。
遥がトーストをかじった。
私も食べた。

窓から朝の光が入った。

六月の光だった。
柔らかかった。
遥の横顔に、光が当たった。
目の腫れが、光の中でわかった。
私は味噌汁を飲んだ。
熱かった。
喉に落ちた。

二人とも、何も言わなかった。

昨夜のことを言わなかった。
言わないことで、何かが保たれた。
何が保たれたのか、今朝もわからなかった。
ただ、二人で朝食を食べた。
それだけが、今朝の確かなことだった。

遥が「行ってきます」と言った。

「行ってらっしゃい」と私は言った。

ドアが閉まった。
廊下に足音がした。
階段を降りる音がして、消えた。

私は一人で、残ったトーストを食べた。
冷めていた。
バターが固まっていた。
それでも食べた。
窓の外で、どこかで鳥が鳴いた。
六月の朝だった。

任務報告

面談は、月に二回あった。

精神科の外来に、支援員の川島さんがいた。
四十代の、落ち着いた女性だった。
診察の前後に、三十分ほど話す時間があった。
私はいつも「大丈夫です」と言ってきた。
大丈夫ではなかった。
でも大丈夫と言うことで、自分を保ってきた。
大丈夫と言えば、大丈夫な人間でいられる気がした。
そう思ってきた。

五月の面談だった。

川島さんが向かいに座った。
部屋は小さかった。
窓が一つあって、外が見えた。
今日は曇っていた。
白い空だった。
川島さんが「最近、どうですか」と言った。

「先週、三日間、布団から出られませんでした」と私は言った。

川島さんが頷いた。
「三日間、朝陽くんはどうしていましたか」と言った。

朝陽のことを聞かれたのは、初めてだった。

「大丈夫です」と言おうとした。
言いかけた。
でも止まった。
朝陽のことを、大丈夫と言えなかった。
自分のことは大丈夫と言えた。
嘘でも言えた。
でも朝陽のことには、その言葉が出なかった。

「夕飯を、作ってくれました」と私は言った。
「朝陽が」
川島さんが少し間を置いた。
「作ってくれたんですね」と言った。

「はい。
いつからか、作れるようになっていて」私は続けた。
「気づいたら、そうなっていました。
私が教えたわけじゃなくて」
川島さんが頷いた。
「他に、気づいたことはありますか」と言った。

私は少し黙った。
今朝の朝陽の顔が、浮かんだ。
笑う前に、私の顔を見る。
確認してから、笑う。
その順番が、浮かんだ。

「笑う前に、私の顔を見るんです」と私は言った。

「朝陽くんが?」
「はい。
笑っていいかどうか、確認してから笑う。
今朝、初めて気づきました」
川島さんが黙った。
窓の外の白い空が、変わらずそこにあった。
私は川島さんの顔を見た。
川島さんは私を見ていた。
責めていなかった。
でも何かを、受け取っていた。

涙が出た。

止めようとしたが、出た。
出てしまってから、止めることを諦めた。
川島さんがティッシュを差し出した。
私は受け取った。
目を押さえた。
泣きながら、続けた。

「私が、そうさせたんだと思います。
だめな日の私を見て、覚えたんだと思う」
「そうかもしれません」と川島さんが言った。

否定しなかった。
でも責めなかった。
そうかもしれない、とだけ言った。

泣きながら、話した。

元夫と離婚してから、うつが悪化したこと。
一人で朝陽を育てながら、「大丈夫です」と言い続けてきたこと。
大丈夫ではない日を、朝陽に見せてきたこと。
見せながら、朝陽が変わっていくのを、気づかないふりをしてきたこと。

全部、川島さんの前で出てきた。

川島さんは黙って聞いた。
メモを取らなかった。
ただ、聞いた。
その聞き方が、川島さんらしかった。
急かさなかった。
まとめようとしなかった。
私が話すままに、受け取った。

泣き終えた。

ティッシュが、手の中でぐしゃぐしゃになっていた。
私はそれを握ったまま、川島さんを見た。

「由佳さんが気づいたこと、大事なことだと思います」と川島さんが言った。

大事なこと、という言葉が、部屋に残った。

責めではなかった。
慰めでもなかった。
ただ、大事なことだ、と言った。
気づいたことを、大事なことだと言った。
気づいてしまったことを、責められると思っていた。
自分でも責めていた。
でも川島さんは、大事なことだと言った。

「朝陽くんのために、何かできることを、一緒に考えませんか」と川島さんが言った。

私は頷いた。

「里親、という選択肢があります」と川島さんが言った。
「由佳さんが回復するための時間を、朝陽くんが安全な場所で過ごす、という考え方です」
里親、という言葉を、聞いたことはあった。
でも自分に関係のある言葉だとは、思っていなかった。
今日まで。

川島さんの声が、穏やかだった。

窓の外の空が、少し明るくなっていた。
白い雲が、動いていた。
私はそれを見た。
動いていた。
止まっていなかった。
雲は、止まらなかった。

面談室を出た。

廊下が明るかった。
蛍光灯の白い光が、廊下に続いていた。
私は歩いた。
泣いた後の顔が、まだ残っていた。
目が、腫れているかもしれなかった。
でも歩けた。

自分のことは嘘をつけた。

でも朝陽のことには、嘘をつけなかった。
その違いが、今日の私には大きかった。
嘘をつかなかったから、泣いた。
泣いたから、川島さんに聞いてもらえた。
聞いてもらえたから、里親という言葉が届いた。

順番があった。

嘘をつかないことが、最初にあった。
朝陽の顔が、笑う前に私の顔を見た、あの朝が、最初にあった。

外に出た。

曇っていた空が、少し変わっていた。
雲の隙間から、光が差していた。
五月の光だった。
眩しかったが、刺さらなかった。
今日は、まだいい日だった。

任務報告

三日後、いい日が戻ってきた。

目が覚めたとき、光が眩しすぎなかった。
体が、重くなかった。
布団から出られた。
それだけで、今日はいい日だとわかった。
いい日が三日ぶりに来た。
三日間、何ができたか。
布団にいた。
朝陽が作ったものを、少し食べた。
それだけだった。

台所に立った。

冷蔵庫を開けた。
卵があった。
ほうれん草があった。
朝陽の好きな卵焼きを作ろうと思った。
出汁を少し入れると、甘くなる。
朝陽が好きな甘さだった。
どこで覚えたか、わからなかった。
気づいたら、朝陽の好きな甘さを知っていた。

フライパンを熱した。

卵を溶いた。
出汁を入れた。
菜箸で混ぜた。
フライパンに流した。
端から巻いた。
うまく巻けなかった。
形が崩れた。
でも焼けた。
皿に乗せた。
三日ぶりに、朝食を作れた。

朝陽を起こしに行った。

部屋に入ると、朝陽はもう起きていた。
ベッドに座って、本を読んでいた。
私が入ってきた気配を感じて、顔を上げた。

笑った。

笑う前に、一瞬だけ私の顔を見た。
私の顔を確認してから、笑った。

私はその順番に、気づいた。

今まで気づかなかった。
でも今朝、気づいた。
笑う前に、私の顔を見る。
確認する。
お母さんは今日、いい日か。
笑っても大丈夫か。
それを確かめてから、笑っていた。

朝陽が「おはよう」と言った。

「おはよう」と私は言った。
声が、少しだけ遅れた。

台所に戻った。

卵焼きが皿にあった。
崩れた形のまま、あった。
トーストを焼いた。
牛乳をコップに注いだ。
朝陽が台所に来た。
椅子に座った。

「卵焼き」と朝陽が言った。
嬉しそうだった。

「形、崩れちゃった」と私は言った。

「いいよ」と朝陽が言った。
「おいしければ」
箸を取った。
一口食べた。
「おいしい」と言った。
笑った。

笑う前に、私の顔を見なかった。
卵焼きを見て、笑った。
今度は確認しなかった。
卵焼きが嬉しくて、確認する前に笑った。

私はそれを見た。

確認しない笑顔が、あった。
確認する笑顔と、確認しない笑顔が、朝陽には両方あった。
どちらが本当の笑顔か、ではなかった。
両方、本当だった。
でも確認する笑顔を、私が作らせていた。

トーストを手に取った。

食べようとした。
口に入れた。
噛んだ。
飲み込もうとした。
飲み込めなかった。
喉の手前で、止まった。

置いた。

朝陽が「どうしたの」と言った。

「ちょっと待って」と私は言った。
水を飲んだ。
冷たかった。
ゆっくり飲んだ。
喉が、少し動いた。

「食欲ない?」と朝陽が言った。

「少しだけ」と私は言った。

朝陽が頷いた。
それ以上聞かなかった。
また卵焼きを食べ始めた。
その引き下がり方が、八歳のものではなかった。
聞いて、引き下がる。
それをいつから覚えたのか。

私はもう一度、トーストを手に取った。

食べた。
今度は飲み込めた。
味がした。
バターの味がした。
焦げた端の、香ばしい味がした。
食べながら、朝陽の横顔を見た。

朝陽が食べ終えた。

「ごちそうさま」と言った。
皿を台所に持っていった。
水で軽く流した。
それも、いつから覚えたのかわからなかった。

ランドセルを背負って、玄関に向かった。

「行ってきます」と言った。
ドアを開けた。

「朝陽」と私は言った。

朝陽が振り返った。
「なに」
「おいしかった?」
朝陽が「うん」と言った。
笑った。
今度も、確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。

ドアが閉まった。

一人になった台所で、私は椅子に座った。

朝陽の皿が、流しに伏せてあった。
きれいに流してあった。
卵焼きの皿も、重ねてあった。
八歳が、自分の食器を片付けた跡だった。

笑う前に、顔色を読む。

その順番を、今朝初めて正確に見た。
見てしまった。
見てしまったことで、もう知らないふりができなくなった。
知らないふりができなくなったことが、今朝の私には重かった。

重くなった体が、また「だめな日」に向かうかもしれなかった。

でも今日は、まだいい日だった。
いい日の朝に、見てしまった。
見てしまったことを、どこかへ持っていかなければならなかった。
一人で抱えていたら、また布団の中に沈む。

どこへ持っていくか。

答えは、まだなかった。
でも今日は、いい日だった。
いい日のうちに、考えなければならなかった。

任務報告

委託の朝、私は湊より先に起きた。

布団の中で目を開けると、カーテンの隙間から光が入っていた。

細い線が、白い天井に伸びていた。

三週間前と同じ光だった。

同じ天井だった。

でも今日で、この部屋の朝は最後だった。

湊にとっては。

湊はまだ眠っていた。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

いつもと同じ寝顔だった。

私はしばらく、それを見ていた。

見ながら、昨夜のうちに荷物をまとめたことを確認した。

着替え、好きな恐竜の図鑑、シェルターで一緒に買った小さなぬいぐるみ。

くたびれた白い犬のぬいぐるみだった。

ホームセンターで三百円だった。

湊が「これがいい」と言って選んだ。

朝食は、卵焼きにした。

甘めに焼いた。

湊の好きな味だった。

湊が起きてきて、椅子に座って、「いいにおい」と言った。

フライパンを覗いて、「たまごやき」と言った。

「そう」と私は言った。

湊は全部食べた。

私は半分しか食べられなかった。

卵焼きを口に入れると、甘かった。

甘すぎるくらいだった。

飲み込むのに、時間がかかった。

湊が「お母さん食べないの」と言った。

「後で食べる」と私は言った。

湊は「ふーん」と言って、麦茶を飲んだ。

麦茶を飲む湊の喉が、こくりと動いた。

私はそれを見ていた。

この子の喉が動くのを、毎朝見てきた。

あの家でも、ここでも。

こくり、こくりと、規則正しく動いた。

どこにいても、この子は水を飲む。

ご飯を食べる。

眠る。

それだけは変わらなかった。

変えさせなかった、と言えるかどうか、私にはわからなかった。

でも変わらなかった。

担当者の車で、三十分走った。

湊は後部座席で、白い犬のぬいぐるみを膝に乗せていた。

窓の外をずっと見ていた。

信号、電柱、川沿いの道。

湊が何を見ているのか、私にはわからなかった。

聞けなかった。

聞いたら、何かが崩れる気がした。

車が止まった。

静かな住宅街だった。

塀に沿って、細い木が並んでいた。

葉が落ちて、枝だけになっていた。

でもその枝の先に、小さな芽が出ていた。

冬の終わりの、固い芽だった。

里親の夫婦が、玄関の前に立っていた。

六十代くらいの、背の低い夫と、白髪の妻だった。

二人とも、穏やかな顔をしていた。

妻がしゃがんで、湊の目線に合わせた。

「来てくれてありがとう」と言った。

湊は少し照れて、ぬいぐるみを胸に押しつけた。

担当者が湊の隣に立って、玄関を示した。

湊がぬいぐるみを抱えたまま、玄関に向かって歩き出した。

二歩、三歩。

敷石の上を、湊の靴が踏んだ。

ぺた、ぺた、と音がした。

玄関の前で、湊が振り返った。

私を見た。

私は動けなかった。

何か言わなければと思った。

でも言葉が、どこにもなかった。

湊は私を見て、それから玄関のドアを向いた。

「いってきます」と湊が言った。

私の喉が、動いた。

「いってらっしゃい」と私は言った。

それだけだった。

湊がドアを開けた。

中に入った。

里親の妻が続いて入った。

ドアが閉まった。

枝の先の芽が、風に揺れた。

固い、小さな芽だった。

帰り道は、一人で歩いた。

担当者に駅まで送ると言われたが、断った。

歩きたかった。

どこをどう歩いているのか、よくわからないまま歩いた。

住宅街を抜けて、大きな道に出た。

車が通った。

自転車が追い抜いた。

風が吹いて、コートの中まで冷えた。

道の端で、立ち止まった。

塀の前だった。

誰かの家の、白い塀。

寄りかかって、声を殺して泣いた。

声は出なかった。

ただ涙が出た。

止まらなかった。

しばらくそのまま立っていた。

風が吹くたびに、目が冷えた。

涙が乾いた。

また出た。

また乾いた。

それが終わると、歩き出した。

歩きながら、「いってきます」という声を思った。

湊の声だった。

躊躇いがなかった。

まっすぐ、外に向かって出た言葉だった。

行ってくる場所があって、その言葉が言えた。

あの家では、「いってきます」を言える朝があったか。

私には思い出せなかった。

でも今日、湊は言えた。

逃げたのではない、と初めて思えた。

逃げたから、湊はあの家を出られた。

それは本当だった。

でも今日気づいたのは、そこではなかった。

私が逃げた日から、湊が「いってきます」と言える朝に向かって、歩いてきた。

遠回りだった。

傷だらけだった。

安全な親かどうか、今もわからなかった。

でも今日、湊を安全な場所に届けた。

それだけが、今日の私にできたことだった。

それだけで、よかった。

駅が見えた。

私は歩き続けた。

風がまた吹いた。

今度は、少しだけ温かかった。

任務報告

支援員の田中さんに相談してから、三週間が過ぎた。

手続きは静かに進んでいた。

書類を書いた。

面談があった。

里親家庭の候補について、説明を受けた。

その間、湊はシェルターで過ごしていた。

他の子どもたちと遊んで、ご飯を食べて、眠った。

私はその隣にいた。

隣にいながら、何も言えなかった。

言えなかったのは、言葉が見つからなかったからではなかった。

言葉はあった。

「湊に、新しいおうちに行ってほしい」。

それだけだった。

短い言葉だった。

でもその言葉を口に出す前に、私はいつも湊の顔を見た。

見ると、言えなかった。

湊が笑っていると、言えなかった。

湊が眠そうにしていると、言えなかった。

言える顔、というものが、湊にはなかった。

話したのは、三週間目の木曜日の夜だった。

湊を風呂に入れて、歯を磨かせて、布団に入った。

部屋の電気を消した。

豆電球だけが、橙色に灯っていた。

湊が私の隣に転がって、天井を見た。

私も天井を見た。

「湊」と私は言った。

「なに」
「お母さん、湊に話がある」
湊が横を向いた。

私の顔を見た。

暗い部屋の中で、湊の目だけが光っていた。

「湊に、新しいおうちに行ってほしいと思ってる」
湊はすぐには何も言わなかった。

私は続けた。

今のおうちとは別の場所に、湊のことをちゃんと迎えてくれる大人がいること。

そこで暮らしてほしいこと。

言葉を選びながら話した。

選んでいる間も、湊は黙って私を見ていた。

「お母さんも来る?」と湊が言った。

胸の奥で、何かが鳴った。

お母さんも来る?それが子どもにとって、唯一の問いなのかもしれない。

「お母さんは後から行く」と私は言った。

嘘かどうか、わからなかった。

後から行けるようになりたい、という気持ちは本物だった。

でも「なれる」かどうかは、今の私には誰にも言えなかった。

言えないまま、言った。

湊のために言ったのか、自分のために言ったのか、それもわからなかった。

湊は少し黙った。

布団の中で、足をもぞもぞと動かした。

考えているのか、眠いのか、私には読めなかった。

それから「わかった」と言った。

「わかった」の中に何があるのか、私には見えなかった。

納得したのか、諦めたのか、ただ言葉を受け取っただけなのか。

四歳の「わかった」は、時々大人より深くて、時々大人より浅かった。

どちらかを確かめる方法を、私は持っていなかった。

「ねむい」と湊が言った。

目を閉じた。

それだけだった。

私は湊の寝顔を見た。

橙色の豆電球の光の中で、湊の顔が柔らかかった。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

シェルターに来た最初の夜も、同じ顔で眠った。

あの家にいた頃も、同じ顔で眠った。

どこにいても、この子は同じ顔で眠る。

泣きたかった。

でも泣けなかった。

泣くことが、眠りかけている湊に何かを押しつける気がした。

私の悲しみを、この子の夜に置いていく気がした。

だから飲んだ。

奥へ押し込んだ。

いつもそうしてきたように。

でも今夜は、少し違った。

押し込んだのは、逃げるためではなかった。

湊が「ねむい」と言えたから。

「わかった」と言って、目を閉じられたから。

この子は今夜、安心して眠れている。

私の隣で。

それだけが、今夜の私には十分だった。

湊の呼吸が、深くなった。

規則正しい、柔らかい音だった。

私はその音を聞きながら、暗い天井を見た。

いつもと同じ天井だった。

知っている天井。

でも今夜は少し、遠くに見えた。

お母さんは後から行く。

その言葉が、まだ部屋の中にあった。

言ったことを、後悔はしていなかった。

ただ、その言葉を本当にするために、私には何が必要か。

安全な親になるために、何が要るか。

答えはまだなかった。

でも今夜、湊に話した。

話せた。

それだけが、今夜の私にできたことだった。

湊の寝息が続いていた。

私はそれを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

任務報告

五月の朝、目が覚めたとき、体が軽かった。

軽い、というのは、正確ではないかもしれない。
ただ、重くなかった。
重くない朝が、私には「いい日」だった。
布団から出られる。
台所に立てる。
朝陽の顔を見られる。
それだけのことが、できる朝だった。

カーテンを開けた。

光が入った。
五月の光は、柔らかかった。
眩しすぎなかった。
「だめな日」の光は眩しすぎる。
同じ光なのに、体の状態によって違って届く。
今日の光は、ちょうどよかった。
それだけで、今日がいい日だとわかった。

台所に立って、朝食を作った。

卵を二個、割った。
フライパンに落とした。
白身が広がった。
黄身が、真ん中に収まった。
塩を少し振った。
パチパチと、油が跳ねた。
その音が、今朝は心地よかった。
「だめな日」はこの音が怖い。
音が、体に刺さる。
今日は刺さらなかった。

朝陽を起こした。

「朝陽、ご飯だよ」と言った。
朝陽が「んー」と言った。
しばらくして、起き上がった。
台所に来た。
目玉焼きを見て、「いい匂い」と言った。
椅子に座った。

二人で食べた。

朝陽が学校のことを話した。
昨日の体育で、ドッジボールをしたこと。
当たらなかったこと。
でも一回だけ、ボールを取れたこと。
私はそれを聞きながら、頷いた。
声が届いた。
朝陽の声が、今朝は届いた。

「行ってきます」と朝陽が言った。

「行ってらっしゃい」と私は言った。

ドアが閉まった。
私は一人になった。
今日はいい日だ、と思った。
このまま続けばいい、と思った。
続くかどうかは、わからなかった。

午後、仕事をした。

データ入力の仕事だった。
画面を見て、数字を打った。
集中できた。
「いい日」は集中できる。
「だめな日」は画面の文字が、意味を持たない記号に見える。
今日は意味があった。
数字が数字として見えた。

三時間、働いた。

疲れた。
でも働いた疲れだった。
「だめな日」の疲れとは、種類が違った。
働いた疲れは、少し気持ちよかった。

夕方、四時を過ぎたころだった。

急に、重くなった。

予告はなかった。
いつもそうだった。
「だめな日」は予告なく来る。
さっきまで軽かった体が、急に鉛になった。
画面の文字が、滲んだ。
椅子から立てなくなった。

布団に入った。

カーテンを閉めた。
部屋が暗くなった。
天井を見た。
白い天井が、遠かった。
体が沈んでいく感覚があった。
沈んでいく、というより、溶けていく感覚だった。

朝陽が帰ってくる時間が、頭にあった。

五時半。
もうすぐだった。
夕飯を作らなければならなかった。
でも動けなかった。
動けないことへの罪悪感が来た。
罪悪感が来ると、もっと動けなくなった。
そのことを、主治医に話したことがあった。
主治医が「罪悪感は症状の一つです」と言った。
症状だとわかっていても、罪悪感は来た。

玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」と朝陽が言った。
「お母さん?」と言った。

「大丈夫」と私は言った。
布団の中から言った。
声が、かすれた。

朝陽が台所に行く音がした。

引き出しを開ける音がした。
冷蔵庫を開ける音がした。
何かを切る音がした。
包丁の音だった。
フライパンが火にかかる音がした。
油が温まる音がした。

私は布団の中で、その音を聞いていた。

朝陽が台所で、夕飯を作っていた。
八歳が、包丁を使っていた。
どこで覚えたのか、わからなかった。
いつから作れるようになったのか、正確にわからなかった。
気づいたら、そうなっていた。
気づかなかった自分が、布団の中で、重かった。

「ご飯できたよ」と朝陽が言った。

廊下から言った。
部屋のドアを開けずに言った。
起きられないなら起きなくていい、という気遣いが、その距離にあった。
八歳の気遣いだった。

嬉しかった。
悲しかった。
申し訳なかった。
全部が同時に来た。

どれが本当かは、わからなかった。
全部、本当だった。

任務報告

六月の土曜日、奈緒さんが夕飯を持ってきた。

チキンのトマト煮込みだった。
鍋ごと持ってきた。
玄関で受け取ったとき、鍋が温かかった。
作りたてだった。
「遥ちゃんが食べられるか、わからなくて」と奈緒さんが言った。
「大丈夫です」と私は言った。

遥は自分の部屋にいた。

「遥、奈緒さん来たぞ」と廊下に向かって言った。
しばらくして、遥が出てきた。
「こんにちは」と言った。
奈緒さんが「こんにちは、遥ちゃん」と言った。
笑顔だった。
遥も笑った。
笑ったが、目が笑っていなかった。
私は気づいた。
気づいて、台所に向かった。

三人でテーブルに座った。

奈緒さんが持ってきたトマト煮込みと、私が作った味噌汁が並んだ。
奈緒さんが「いただきます」と言った。
三人で手を合わせた。

奈緒さんが遥に話しかけた。

「最近、学校どう?」
「普通です」と遥が言った。

「好きな授業ある?」
「国語です」と遥が言った。

「本が好きなんだね」
「はい」と遥が言った。

それだけだった。
遥は間違っていなかった。
質問に答えていた。
でも何かが続かなかった。
奈緒さんが話しかけるたびに、遥が短く答えて、止まった。
止まるたびに、奈緒さんが次の言葉を探した。
その繰り返しだった。

私は黙って食べた。

間に入れなかった。
入ろうとするたびに、何を言えばいいかわからなかった。
体育教師を十五年やってきた。
生徒の気持ちを読むのは、得意なはずだった。
でも今夜の遥と奈緒さんの間に、私は入れなかった。

食事が終わった。

遥が「ごちそうさまでした」と言って、自分の皿を台所に持っていった。
「部屋に戻ってていいか」と私に言った。
「ああ」と私は言った。
遥が廊下に消えた。

奈緒さんが片付けを手伝った。

「トマト煮込み、食べてくれてよかった」と奈緒さんが言った。
「ありがとう、うまかった」と私は言った。
奈緒さんが笑った。
でも少しだけ、疲れた笑顔だった。
気づかないふりをした。
気づいてしまったら、何か言わなければならない気がした。

奈緒さんが帰った。

玄関でドアが閉まった。
廊下が静かになった。
私は台所に戻って、残った皿を洗い始めた。

奈緒さんが持ってきた鍋を洗った。

丸い、赤い鍋だった。
奈緒さんの家の鍋だった。
スポンジで内側を洗った。
トマトの赤が、泡と混ざって流れた。
温かい水が、手に当たった。

うまくいかなかった、と思った。

誰が悪いわけではなかった。
奈緒さんは優しかった。
遥も失礼ではなかった。
料理も、会話も、全部正しかった。
でも温度がなかった。
三人のテーブルに、温度がなかった。

遥が奈緒さんを見るとき、何かを測るような目をしていた。

何を測っていたのか、私には読めなかった。
この人は信用できるか。
この人はここにいていい人か。
それとも別の何かを。
読めないまま、鍋を洗い続けた。

誰かが、この三人の中で場所を譲らなければならない。

その感覚が、温かい水の中で、静かに浮かんだ。
誰が譲るのか。
譲った人は、どこへ行くのか。
答えが出ないまま、鍋がきれいになった。
私は鍋を伏せて、水を止めた。

台所が静かになった。

遥の部屋から、物音がした。
本をめくる音か、椅子を引く音か、わからなかった。
ただ、遥がそこにいた。
今夜も、ここにいた。
それだけが、今夜の確かなことだった。

任務報告

その夜は、夕食のあとだった。

共用スペースに、子どもが三人いた。

湊と、小学生くらいの女の子と、湊より少し小さい男の子。

三人でおもちゃ箱を囲んでいた。

私は壁際の椅子に座って、湊を見ていた。

はじめは穏やかだった。

ブロックを並べて、何かを作っていた。

湊が赤いブロックを取った。

小さい男の子も、同じ赤いブロックに手を伸ばした。

二人の手が、同時にそれを掴んだ。

湊が引いた。

男の子も引いた。

湊が、押した。

強くはなかった。

でも男の子は体勢を崩して、尻もちをついた。

それから泣き出した。

私は立っていた。

気づいたら、湊の腕を掴んでいた。

右手で、湊の左腕を。

湊の体が、ぐらりと傾いた。

掴みすぎた、と気づいたのは、湊の顔を見てからだった。

湊は泣かなかった。

ただ、私を見た。

黙って、真っ直ぐ、私を見た。

その目が、どこか遠かった。

怯えとも違った。

諦めとも違った。

ただ、待っていた。

次に何が来るかを、待っていた。

私は手を離した。

湊の腕に、私の指の跡が残っていた。

赤くはなかった。

でも確かに、そこに四本の指の形があった。

私はそれを見た。

見て、目を逸らせなかった。

湊の目が、拓也に怒鳴られていたときの自分の目に見えた。

次に何が来るかを知っている目。

備えている目。

四歳が、その目をしていた。

男の子のお母さんが来て、泣いている子を抱き上げた。

湊に「ごめんなさいは?」と言った。

湊は「ごめんなさい」と言った。

私の方を一度も見ずに、まっすぐ男の子に向かって言った。

私は何も言えなかった。

湊の「ごめんなさい」が、耳に残った。

きれいな「ごめんなさい」だった。

躊躇いがなかった。

反射的に、正確に、出てきた言葉だった。

それがこの子の中に、いつから入っていたのか。

その夜、湊が眠ってから、私は布団の中で天井を見た。

腕を掴んだ手の感触が、まだ右手に残っていた。

強く掴みすぎた。

湊は泣かなかった。

泣かなかったことの意味を、私は知っていた。

泣いてはいけないと、体が判断したから泣かなかった。

その判断を、四歳がしている。

誰が教えたか。

拓也が教えた部分はある。

でも私が逃げられなかった時間が、教えた部分もある。

私がそこにいたから、湊はあの家で、泣いてはいけないことを覚えた。

それは拓也のせいにできなかった。

私が、そこにいたのだから。

天井のシミを、暗い中で探した。

昼間は見えているシミが、夜は見えなかった。

同じ天井なのに、光がなければ何もわからなかった。

里親委託、という言葉が浮かんだ。

これまでも浮かんだことはあった。

でもそれは、私が限界だから、という場所から浮かんでいた。

今夜は違った。

湊の腕に残った指の跡。

泣かなかった目。

反射的な「ごめんなさい」。

それらが、全部湊のことだった。

私のことではなかった。

この子にとって、私は安全な親でいられるか。

いられない日が、今夜あった。

それだけは確かだった。

確かなことが一つあれば、次が見えることもある。

私はそう思うことにした。

思うことにして、目を閉じた。

湊の寝息が、暗い部屋に聞こえていた。

規則正しい、深い音だった。

その音を聞きながら、私はようやく眠った。

任務報告

面談室は、窓が一つあった。

曇りガラスで、外の景色は見えなかった。

白く滲んだ光だけが入ってきた。

部屋の隅に観葉植物があって、葉が丸く、濃い緑色をしていた。

誰かが水をやっている植物だった。

私はそれを見ながら、椅子に座った。

支援員の田中さんは、三十代くらいの女性だった。

いつも少しだけ前のめりに座る人だった。

話を聞くとき、体ごと向けてくる。

その姿勢が、最初は少し怖かった。

まっすぐ向けられることに、慣れていなかった。

「今日は生活再建について、一緒に整理しましょう」と田中さんが言った。

就労支援の話から始まった。

美容師の資格があること、ブランクが三年あること、湊の預け先が確保できれば働けること。

田中さんがノートに書きながら、確認するように話した。

私は頷いた。

頷くたびに、自分の生活が図式になっていく感覚があった。

正しかった。

全部、正しかった。

離婚手続きの進捗を確認して、住居の候補をいくつか見て、面談が終わりに近づいた。

「湊くんの様子は、どうですか」と田中さんが言った。

「元気です」と私は答えた。

嘘ではなかった。

湊はよく食べて、よく眠った。

シェルターの他の子どもたちと、すぐに打ち解けた。

昨日は共用スペースで、知らない子と一緒に積み木を積んでいた。

崩れるたびに、二人で笑っていた。

元気だった。

本当に、元気だった。

でも田中さんが「そうですか、よかった」と言ったとき、私は少しだけ黙った。

よかった、と思えなかったわけではなかった。

ただ、元気であることが、安心と不安の両方に見えた。

面談室を出て、廊下を歩いた。

共用スペースから、子どもたちの声が聞こえた。

湊の声も混じっていた。

高くて、よく通る声だった。

私はその声を廊下で聞きながら、立ち止まった。

この子は適応が早い。

場所が変わっても、人が変わっても、すぐに慣れる。

それは強さかもしれない。

でも私には、その強さの輪郭が怖かった。

この子がどこにでも慣れられるのは、慣れなければならない場所に、ずっといたからではないか。

あの家に。

私と拓也がいた、あの家に。

DVを受けた人間が、DVをしない親になれるか。

その問いを、誰にも言ったことがなかった。

田中さんにも言えなかった。

言葉にすれば、答えを求めなければならない。

答えが出たとき、それが「なれない」だったら。

その先を、まだ考えられなかった。

廊下の窓から、空が見えた。

曇っていた。

白い雲が、低く垂れていた。

どこかで風が吹いているのか、雲の端がゆっくりと動いていた。

私はそれを見ていた。

雲は答えを持っていなかった。

ただ動いていた。

夕方、湊が部屋に戻ってきた。

「お母さん、つみき強かったよ」と言った。

「そう」と私は言った。

「ぜんぜん崩れなかった」
「上手だったんだね」
湊は満足そうに頷いて、布団の上に転がった。

天井を見て、何か考えるような顔をして、またすぐに目を閉じた。

夕飯前なのに、眠りそうだった。

私は湊の隣に座った。

この子の寝顔を、今日も見ている。

あの家でも見ていた。

逃げる前も、逃げた後も、湊の寝顔だけは変わらなかった。

口が少し開いて、頬が緩んで、呼吸が深くなる。

どこにいても、同じ順番で眠る。

安全な親かどうか、まだわからなかった。

でも今日、この子の隣に座っている。

それだけが、今日の私にわかることだった。

任務報告

カーテンの隙間から、光が入った。

白い天井に、細い線が伸びた。

私はそれをしばらく見ていた。

ここに来て三週間、毎朝同じ天井を見ている。

見慣れてきた、とは少し違う。

ただ、知っている天井になった。

知っている天井があることが、今の私には必要だった。

湊が動いた。

隣の布団で、ごろりと寝返りを打った。

まだ眠っていた。

四歳の寝顔は、どこにいても同じだった。

口が少し開いていた。

頬が枕に押されて、片方だけ膨らんでいた。

私は先に起きて、共用の台所へ行った。

シェルターの台所は、六人分の道具が並んでいた。

鍋、フライパン、まな板。

それぞれに名前のシールが貼ってあった。

私のシールは水色だった。

入居したとき、支援員が「好きな色を選んでください」と言った。

水色を選んだ理由は、特になかった。

ただ、選べることが、そのとき少し嬉しかった。

冷蔵庫から卵を出して、湊の分の目玉焼きを焼いた。

バターが溶けて、卵の白身が広がった。

縁がぷつぷつと泡立って、香ばしい匂いが台所に広がった。

窓の外で、雀が鳴いていた。

湊が台所に来た。

髪が寝癖でぐしゃぐしゃだった。

目を細めて、フライパンを覗いた。

「たまごやき」と言った。

「目玉焼きね」と私は言った。

湊は「めだまやき」と繰り返して、椅子に座った。

牛乳をこぼしたのは、食事の途中だった。

湊がコップに手を伸ばして、肘が当たった。

白い液体が、テーブルの端から床に落ちた。

ぱしゃ、と音がした。

私の体が、固まった。

肩に力が入った。

喉の奥が、締まった。

怒鳴り声を待つように、体が先に動いた。

でも声は来なかった。

来ないとわかっていた。

ここには拓也がいない。

三週間、毎日わかっていた。

それでも体は、まだあの台所にいた。

湊が椅子から降りた。

流しの下を開けて、雑巾を取り出した。

床にしゃがんで、こぼれた牛乳を拭き始めた。

「ごめんなさい」と言った。

私の顔を見ずに、床を見たまま言った。

私は動けなかった。

四歳が、こぼしたら謝ることを知っている。

雑巾がどこにあるかを知っている。

自分で取りに行く。

誰かに言われる前に。

それがこの子の中に、いつの間にか入っていた。

私はしゃがんで、湊の手から雑巾を取った。

「いいよ、お母さんがやる」と言った。

湊は少しだけ私を見て、椅子に戻った。

私は床を拭いた。

冷たかった。

牛乳の甘い匂いが、鼻に届いた。

拭きながら、思った。

この子が「ごめんなさい」を反射的に言えるのは、誰のせいか。

拓也のせいか。

逃げられなかった時間のせいか。

それとも私のせいか。

答えを探し始めると、どこにも辿り着かない問いだった。

だから答えを出す前に、雑巾を絞った。

流しで雑巾を洗った。

水が冷たかった。

「お母さん」と湊が言った。

「なに」
「たまご、まだある?」
目玉焼きを、もう一枚食べたかったらしい。

私はフライパンを火にかけた。

バターを落とした。

また溶けて、また香ばしい匂いがした。

湊が椅子の上で、少し背伸びをしてフライパンを見ていた。

怒鳴り声は来なかった。

来ない朝が、また一日始まった。

それだけで、今日はよかった。

今日は、それだけでよかった。

任務報告

三月の夕方、ユイが「卵焼き作っていい?」と言った。

台所でパスタを茹でていた私は、振り返った。

十八歳になったユイが、エプロンを手に持って立っていた。

春から調理の専門学校に進む。

入学式は来週だった。

今夜は出発前最後の夜だった。

「ハルカさんとミオさんの分も作る」
私は「作って」と言った。

それだけ言えた。

ミオがちょうど帰ってきた。

玄関で「いい匂い」と言いながら荷物を置いて、台所を覗いた。

三十二歳の女が、エプロン姿のユイを見て、一瞬動きを止めた。

それから何事もなかったように「手洗ってくる」と言って、洗面所に向かった。

私はソファに座って、台所を見ていた。

ユイが卵を割った。

三つ。

ボウルに落として、菜箸でよく溶いた。

砂糖を入れた。

だしを加えた。

少し考えてから、砂糖をもう少し足した。

その仕草が、十二年前のミオに似ていた。

フライパンを火にかけた。

油を引いた。

じゅわりという音がした。

甘い匂いが広がった。

私は目を閉じた。

この匂いを、何百回嗅いだだろう。

二十七歳だった私が、三十三歳になるまでの六年間。

試作を重ねたあの夏の朝も、ユイが初めて「おいしかった」と言ったあの朝も、全部この匂いの中にあった。

ユイが卵液を流した。

菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たる音がした。

じゅっ。

ユイが「あ」と言った。

私は目を開けた。

ミオも台所の入口に立っていた。

二人で見ていた。

ユイはそのまま巻き続けた。

焦げた端を、わざと残したような手つきで。

皿に乗せて、三つに切った。

「どうぞ」
三人でテーブルを囲んだ。

LGBTの同性愛カップルとして里親になった日から、六年が経っていた。

二十七歳と二十六歳だった私たちは、いつの間にか三十代になっていた。

ユイは六歳から十八歳になっていた。

テーブルの上に、三枚の皿があった。

私は箸を取った。

一口、食べた。

甘かった。

だしが入っていた。

端が少し焦げていた。

何も言えなかった。

言葉が見つからなかった。

三十三歳の女が、十八歳の作った卵焼きを前に、黙って箸を持っていた。

ミオが「うまい」と言った。

ユイが箸を持ちながら、静かに言った。

「前のおうちの味に似てるかな」
誰も答えなかった。

ミオも私も、答えを持っていなかった。

ユイの前の家庭の台所を、私たちは知らない。

あの卵焼きを作っていた手を、見たことがない。

似ているかどうか、永遠にわからない。

でも三人とも、最後まで食べた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今夜は長い時間をかけて書こうと思っていた。

でもペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

書きたいことが多すぎると、言葉が出てこない。

窓の外で、春の風が鳴った。

LGBTの同性愛カップルとして里親になることを決めたあの夜、私は自分たちに足りないものを数えていた。

でも今夜、ユイが台所に立って、三人分の卵焼きを作った。

端を少し焦げさせながら、丁寧に巻いた。

それを三人で食べた。

完璧な家族ではなかった。

あの味に完全に近づけたかどうかも、わからない。

でもこの台所で、この子は何かを作れるようになった。

誰かのために、台所に立てるようになった。

それが今夜の、最後の一行になった。

ユイが、私たちのために卵焼きを作った。

端が少し焦げていた。

それで十分だった。

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試作を始めてから、二ヶ月が経った。

その間、ミオは何度も卵焼きを作った。

週に二回、三回のときもあった。

砂糖の量、だしの濃さ、火加減、巻くタイミング。

少しずつ変えながら、少しずつ近づこうとした。

ユイはそのたびに食べた。

「ちがう」とは言わなかった。

でも「おいしい」とも言わなかった。

ただ、食べた。

私はその背中を、毎朝見ていた。

八月の朝だった。

ミオが早番で、六時前に起きた。

私も一緒に起きて、台所でコーヒーを入れた。

夏の朝の空気は湿っていて、窓の外がまだ暗かった。

ミオがエプロンをつけて、卵を三つ割った。

砂糖、だし、醤油を少し。

いつもの順番だった。

フライパンを温めながら、ミオが「今日は弱火でゆっくりやってみる」と言った。

私は「うん」と言ってコーヒーを飲んだ。

卵液を流すと、じわりと広がった。

甘い匂いが立ちのぼった。

ミオが菜箸で端を持ち上げて、ゆっくり巻いた。

二巻き目に差しかかったとき、端がフライパンに当たった。

じゅっという音がした。

「あ、焦げた」
ミオが言いかけた。

私は台所の入口から見ていた。

そのとき、ユイが起きてきた。

寝癖のついた六歳の女の子が、目を細めながら台所を覗いた。

甘い匂いが漂っていた。

ミオがフライパンを傾けて、焦げた端を見せながら「焦げちゃったな」と言った。

ユイが卵焼きを見た。

「それでいい」
静かな声だった。

眠そうな、でも確かな声だった。

ミオが振り返ってユイを見た。

私も見た。

ユイはもう台所に背を向けて、洗面所に向かっていた。

水道の音がした。

朝食の間、誰もその話をしなかった。

ユイは焦げた端の卵焼きを、最初に食べた。

それから真ん中を食べた。

最後の一切れを食べ終えてから「おいしかった」と言った。

ミオが「よかった」と言った。

私は何も言えなかった。

喉の奥で何かが詰まっていた。

二十七歳の女が、六歳の子どもの「おいしかった」という一言で、言葉を失った。

LGBT、同性愛カップルとして里親になってから、うまくいかないことを数えてきた。

書類のこと、周囲の視線のこと、自分たちに足りないもののこと。

でも今朝の「おいしかった」は、そういうものを全部、静かに脇に置いた。

ユイが登校してから、日記を開いた。

今日書きたいことは、「それでいい」という言葉のことだった。

あの卵焼きは、前の家庭の味に完全に近づいたわけじゃないと思う。

私たちにはわからないけれど、たぶんまだちがうところがある。

でもユイは「それでいい」と言った。

諦めじゃないと思いたい。

この家の卵焼きを、この家の味として受け取り始めたということだと、思いたい。

LGBTの同性愛カップルが里親として完璧な家族を作ることは、たぶんできない。

でも「それでいい」と言ってもらえる場所には、なれるかもしれない。

今朝の台所が、そう教えてくれた気がした。

夕方、ミオから短いメッセージが届いた。

「今日、仕事中もずっとユイちゃんの顔が浮かんだ」
私は「私も」とだけ返した。

窓の外で、蝉が鳴いていた。

夏の午後の光が、台所の床に細長く伸びていた。

フライパンはもう洗われて、水切りかごに立てかけてあった。

端が少し黒くなっていた。

私はしばらくそれを見ていた。

任務報告

木曜日の夕方、ソファで横になっていた。

特別なことがあったわけじゃない。

ただ疲れていた。

朝から仕事で、帰りにスーパーに寄って、夕食の準備をして、それだけで力が尽きた。

パートナーは今夜も帰りが遅い。

彼女は自分の部屋で、たぶん宿題をしている。

リビングは静かで、窓の外がゆっくり暗くなっていくのが見えた。

目を閉じた。

委託から半年が経った。

この半年間に何があったか、思い返すと疲れる。

夜中の看病、残ったお弁当、口論、床に座ったまま迎えた朝。

里親としての正解が何なのか、今もわからない。

LGBTのカップルがこの子の家族になれるのか、という問いも、きれいに消えたわけじゃない。

同性愛者である私たちのもとで、この子が「ここでよかった」と思える日が来るのかどうか、まだわからない。

ただ今日は、考える体力が残っていなかった。

うとうとしかけた頃、廊下に足音がした。

彼女の足音だった。

ぺたぺたとした、小さなスリッパの音。

リビングに入ってくる気配がした。

私は目を閉じたまま、息をひそめた。

テーブルの上に、何かを置く音がした。

コとん、という音だった。

それだけだった。

また足音がして、廊下に遠ざかって、部屋のドアが閉まった。

目を開けた。

テーブルの上に、コップが一つ置いてあった。

麦茶が入っていた。

氷も入っていた。

氷がコップの縁に当たって、かすかな音を立てた。

私はしばらく、そのコップを見ていた。

それから起き上がって、コップを両手で持った。

冷たかった。

ひんやりとした温度が手のひらに広がった。

一口飲んだ。

麦茶の、少し苦くて甘い味がした。

廊下のほうを見た。

「ありがとう」
声に出して言った。

部屋のドアは閉まっていた。

聞こえたかどうか、わからなかった。

返事はなかった。

この半年間、ずっと待っていた言葉を、今日は私が先に言っていた。

それがどういう意味なのか、うまく言葉にできない。

里親として何かが変わったのか、それとも私が変わったのか、たぶん両方で、たぶんどちらでもない。

不満がなくなったわけじゃない。

ありがとうをもらえなかった日々の積み重ねは、消えない。

夜中に床で座っていた背中の痛さも、残ったお弁当を流しで洗ったときの気持ちも、まだ体のどこかに残っている。

LGBTのカップルが里親になるとはどういうことか、同性愛者である私たちがこの子に何を渡せるのか、答えはまだ出ていない。

たぶんこれからも、きれいな答えは出ない。

ただ今日、私はコップを受け取った。

彼女は何も言わなかった。

ありがとうも、どういたしましても、なかった。

それでも、あのコとんという音は確かに聞こえた。

テーブルの上に置かれた、あの小さな音は。

窓の外が完全に暗くなっていた。

コップの中の氷がまた鳴った。

私は日記を開いて、今日のことを書いた。

きれいにまとめるつもりはない。

答えが出たふりもしない。

ただ今日の麦茶は、少しだけおいしかった。

それだけを書いて、ペンを置いた。

任務報告

ユイが「ちがう」と言ってから、一週間が経った。

その間、卵焼きの話は誰もしなかった。

ミオは毎朝違うものを作った。

スクランブルエッグ、目玉焼き、ふわふわのオムレツ。

どれもおいしかった。

ユイは毎朝きれいに食べた。

でも、あの遠い目をするときが、まだあった。

土曜の午後、ミオが仕事に出かけた。

家にユイと二人になった。

私はデスクで作業をしていたが、画面に集中できなかった。

リビングでユイが絵本を読んでいた。

ページをめくる音が、静かに聞こえた。

一時間くらい経ったころ、私はデスクを離れた。

リビングに行って、ユイの隣にそっと座った。

ユイが絵本から顔を上げた。

私を見た。

私は少し間をおいてから言った。

「前のおうちの卵焼き、どんな味だったか教えてくれる?」
ユイはすぐには答えなかった。

絵本を閉じて、膝の上に置いた。

窓の外を見た。

六歳の女の子が、何かを思い出そうとするときの顔をした。

「あまかった」
「甘かったんだね」
「うん。

それと、なんか、だしみたいなのも入ってた」
「だし巻き卵みたいな感じ?」
ユイが少し考えた。

「わかんない。

でもおいしかった」と言った。

それから小さく続けた。

「はしっこが、ちょっと焦げてた」
私は全部、日記帳に書き留めた。

甘い。

だしが入っている。

端が少し焦げている。

毎朝作っていた。

それだけだった。

でもユイが話してくれたことが、今日の私には十分すぎるほどだった。

「ありがとう、教えてくれて」と私は言った。

ユイはまた絵本を開いた。

それだけだった。

夜、ミオが帰ってきてから、書き留めたことを見せた。

ミオは読みながら「よし」と言って、スマートフォンでレシピを調べ始めた。

二十六歳の女が、カフェの仕事で疲れて帰ってきたのに、台所に立った。

私も隣に立った。

一回目は甘さが足りなかった。

二回目はだしが強すぎた。

三回目、ミオが卵液に砂糖をもう少し足して、火加減を少し弱めた。

焼き始めると、甘い匂いが台所に広がった。

巻き終わりの端が、少し焦げた。

ミオが「あ」と言いかけた。

私は「そのままにして」と言った。

皿に乗せて、二人で一口ずつ食べた。

「近いかも」とミオが言った。

私はまだ足りない気がした。

でも何が足りないのか、言葉にできなかった。

ユイの前の家庭の台所の温度も、その朝の光も、卵焼きを作っていた手の大きさも、私たちには永遠にわからない。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親としてこの子にできることと、できないことの境界線が、今夜の台所にはっきりと見えた。

でも近づこうとすることを、やめたくなかった。

日記を開いて、今夜のことを書いた。

最後にユイが話してくれた言葉を、もう一度書き写した。

あまかった。

だしみたいなのも入ってた。

はしっこが、ちょっと焦げてた。

この三行が、今夜の私たちの地図だと思った。

任務報告

三週間が経った。

ユイは少しずつ部屋に慣れてきた。

朝、自分でカーテンを開けるようになった。

夕食のあと、食器を台所に運んでくるようになった。

言葉は少なかったが、私たちの動きを目で追うことが増えた。

それだけで、今月は十分だとミオが言った。

私は日記にそれを書いた。

ある土曜の昼過ぎ、ミオが台所でボウルを出した。

「ユイちゃん、卵焼き一緒に作らない?」
リビングでクレヨンを動かしていたユイが顔を上げた。

首を横に振った。

ミオは「そっか」と言って、一人で卵を割り始めた。

私はソファから見ていた。

十分くらい経ったころ、ユイがクレヨンを置いた。

音もなく立ち上がって、台所に向かった。

ミオの隣に、黙って立った。

ミオは何も言わなかった。

砂糖とだしを混ぜながら、ユイが覗き込める角度にボウルを傾けた。

六歳の女の子が、二十六歳の女の隣で、泡立つ卵液を見ていた。

フライパンに油を引くと、じゅわりという音がした。

ユイの肩が少し動いた。

卵液を流すと、甘い匂いが台所に広がった。

ミオが菜箸で端を折りながら、丁寧に巻いた。

皿に乗せて、三つに切った。

「食べてみて」
ユイは箸を持った。

一切れを口に入れた。

よく噛んだ。

飲み込んだ。

「ちがう」
泣かなかった。

叫ばなかった。

ただ、静かに言った。

箸を皿の横に置いた。

ミオは「そっか、ちがうか」と言って、自分の箸を取った。

残りの二切れを、ゆっくり食べた。

おいしそうに食べた。

傷ついた顔を、しなかった。

私はそれを、台所の入口から見ていた。

夜、ユイが寝てから日記を開いた。

今日書きたいことは、ミオのことだった。

「ちがう」と言われたとき、ミオは一秒も顔を曇らせなかった。

LGBT、同性愛カップルとして里親になることを決めたとき、私は自分たちに足りないものを数え続けた。

経験も、実績も、世間が想像する「ふつうの家族」の形も。

でも今日台所で足りなかったのは、そういうことじゃなかった。

あの味だけは、再現できない。

ユイの前の家庭で、毎朝作られていた卵焼き。

その味を作った手を、私たちは知らない。

その台所の匂いを、私たちは嗅いだことがない。

どれだけ近づこうとしても、同じにはなれない。

でも今日、ミオは「そっか、ちがうか」と言った。

それだけだった。

責めなかった。

謝らなかった。

ただ、受け取った。

私はミオのその強さを、まだ持っていない。

ペンを置いて、台所を見た。

洗い終わったフライパンが、水切りかごに立てかけてあった。

油の匂いが、まだ少し残っていた。

任務報告

六月の夜は、蒸し暑かった。

ユイが玄関に立ったとき、私は靴を揃えることしかできなかった。

六歳の女の子は、花柄のボストンバッグを両手で抱えて、部屋の中を見ていた。

見ているというより、測っていた。

この場所が安全かどうかを、小さな目で静かに確かめていた。

「入って入って、靴脱いでいいよ」

ミオが膝をついて目線を合わせた。

二十六歳の女が、初めて会う子どもにそうやって笑えることを、私は七年間隣で見てきた。

私にはできない。

二十七歳になった今も、できない。

ユイはゆっくり靴を脱いで、部屋に入った。

夕食はミオが作った。

鶏の照り焼き、きゅうりの浅漬け、豆腐の味噌汁。

ミオはカフェの店長をしながら料理の腕を磨いてきた。

今夜は特別に力が入っていた。

醤油とみりんの匂いが部屋に満ちて、私はその匂いを嗅ぎながら、テーブルを拭いた。

三人で食卓を囲んだ。

ミオがよくしゃべった。

好きな食べ物のこと、近くに川があること、週末に一緒に行けたらいいねということ。

ユイは短くうなずいた。

箸はほとんど動かなかった。

照り焼きを一口、味噌汁を二口。

それだけだった。

食後、ミオが皿を重ねていると、ユイが言った。

「前のおうちのごはん、食べたい」
台所の水音が止まった。

ミオがユイを見た。

「どんなごはん?」と聞いた。

ユイはしばらく黙っていた。

それから小さく言った。

「……卵焼き」
それだけだった。

ユイはそれ以上話さなかった。

ミオは「そっか」と言って、また皿を洗い始めた。

水の音が戻った。

私はテーブルの前に座ったまま、動けなかった。

ユイが寝てから、日記を開いた。

同性愛カップルとしてLGBTの里親になることを決めたのは、二年前だった。

申請のたびに書類を書き直して、面談のたびに自分たちの関係を説明した。

二十代の女性同士が里親になれるのかと、何度も不安になった。

それでも進んできたのは、ミオが「やってみよう」と言い続けたからだ。

今夜、私が一番重く感じたのは、そのことではなかった。

ユイが「卵焼き」と言ったときの顔を、何度も思い返した。

泣いていなかった。

怒っていなかった。

ただ、遠くを見ていた。

六歳の子どもが、遠くを見るときの顔を、私は今夜初めて正面から見た。

この子には、帰りたい場所の味がある。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親として何をすべきか、今夜はまだわからない。

ただ、あの卵焼きの味だけは、消してはいけないと思った。

消すことも、できないと思った。

窓の外で、雨が降り始めた。

ユイの部屋の電気は、まだついていた。